中国買取作家 | 骨董品買取 査定 遺品整理 | 京都・古門前の古美術店 三髭堂

中国買取作家

あ行の中国作家一例

  • 亜明(あめい)
  • 伊孚九(いふきゅう)
    伊孚九(い ふきゅう、1698年-1747年?)は、中国清代中期の貿易商・画家。貿易商として長崎に度々来日し南宗画の画風を伝えた。池大雅や桑山玉洲らが私淑し、その後日本の文人画壇に広まった。諱を海、孚九(桴鳩)は字。号は莘野・匯川・成堂(也堂)・雲水伊人などと称した。江蘇省蘇州府山塘の人。
  • 于非闇(うひあん)
  • 于右任(うゆうじん)
    清末・民国の政治家・書家。陝西省三原生。名は伯循、右任は字。日本に留学中、孫文と会い、以後中国民主革命の先駆者として活躍した。民国成立後、交通部次長・陜西省靖国軍総指令・国民政府委員を経て、審計院院長・監察院院長を歴任。民国38年国民政府と共に台湾に移った。詩文を能くした。民国53年(昭和39・1964)歿、86才。
  • 惲寿平(うんじゅへい)
    1633‐90 中国,清代初期の画家。常州(江蘇省武進)の人。初名は格,字の寿平が通行したため,のちに字を正叔と改めた。号は南田,白雲外史,甌香(おうこう)散人など。四王呉惲の一人。はじめ伯父の惲向に画を学び,瀟洒な山水を描いたが,中年以後没骨(もつこつ)写生の花卉(かき)画により一家をなした。門下に馬元馭(ばげんぎよ),鄒顕吉,蔣廷錫(しようていしやく),惲冰(うんひよう),張子畏らがいる。常州派の中心画家で,清代の花鳥画に多大な影響を与えた。
  • 汪亜塵(おうあじん)
  • 王一亭(おういってい)
    中国近代の実業家・画家。名は震、号は白龍山人。任伯年・呉昌碩に学ぶ。花卉山水を能くし、また仏教に深く帰依したことから仏画にもすぐれた。呉昌碩歿後、上海の美術界の中心人物として活躍。著書に『孔子哲学』等。民国27年(昭和13・1938)歿、72才。
  • 王雪濤(おうせっとう)
  • 王鐸(おうたく)
    中国,明末,清初の書家。孟津 (河南省) の人。字は覚斯,覚之,号は嵩樵など。諡は文安。明,清両朝に仕え礼部尚書となった。楷書は唐の顔真卿,行草は王羲之,王献之の書風を学んだ。情趣豊かな連綿体の書風を特色とする。筆跡としては『擬山園帖』『琅華館帖』などがある。詩文,絵画も巧みであった。文集『擬山園集』がある。
  • 王文冶(おうぶんじ)
  • 王福厂(おうふくかん)
  • 王冕(おうべん)
    元末明初の画家,詩人。字は元章,号は煮石山農,会稽外史,竹斎,飯牛翁,梅花屋主など。諸曁 (浙江省) の人。科挙の試験に失敗し,処士として諸方を遊歴した。著書に『竹斎詩集』がある。代表作『墨梅図』 (宮内庁) は「千花万蘂 (ずい) 」と評される華麗な画風で,明代以後の墨梅の規範となった。
  • 翁方綱(おうほうこう)
    1733‐1818 中国,清中期の学者,書家。字は正三,号は覃渓,蘇斎。順天府大興県(北京)の人。乾隆17年(1752)の進士。官は内閣学士に至る。各地に郷試の考官や学政を務めて,後進を育て,《四庫全書》の編纂にも参画した。経史,金石の学における考訂の精密さに定評があり,漢隷の研究《石経残字考》《両漢金石記》などの著がある。書にも優れ,唐人の楷行,漢隷を学んで一家をなし,劉墉,王文治,梁同書と併せ清朝四大家の一人。帖学の著に《蘭亭考》がある。
  • 王冶梅(おうやばい)
    清代の画家。南京の人。名は寅、冶梅は字。人物・山水・木石・禽魚を能くする。のち上海に住んだ。光緒年間(1875~1908)に活躍。

か行の中国作家一例

  • 郭沫若(かくまつじゃく)
    中国の文学者,政治家。名,開貞。号,尚武。沫若は筆名。ほかに麦克昂,易坎人。 1914年九州大学医学部に留学。 21年7月,日本で郁達夫らと「創造社」を組織し,「芸術のための芸術」を主張。 23年帰国。 25年プロレタリア・リアリズムを提唱し,同時に実践活動に投じ,27年4月蒋介石の上海クーデター (国共分裂) 後,南昌蜂起に加わり,次いで弾圧を逃れて日本に亡命,中国古代史や文学研究に没頭した。 37年蘆溝橋事件の直後,日本人妻子を残して帰国,抗日救国の宣伝活動や評論,劇作に活躍した。解放後は民主政治運動の先頭に立ち,中央人民政府政務院副総理,文化教育委員会主任,科学院院長,中日友好協会名誉会長などを兼任。文化大革命のとき率先して自己批判を発表。文革時代から四人組批判以降も一貫して文化界の重鎮として活躍し,77年には全国人民代表大会常務委員会副委員長。小説『牧羊哀話』『函太関』,戯曲『北伐』,自伝『創造十年』,論文『中国古代社会研究』『卜辞通纂』『両周金文辞大系考釈』『十批判書』など。
  • 何海霞(かかいか)
  • 何家英(かかえい)
  • 何紹基(かしょうき)
    1799‐1873 中国,清代後期の書家。湖南省道州の人。字は子貞,号は東洲,猨叟。父は戸部尚書,何淩漢。兄弟4人とも能書で,何氏四傑と称された。道光16年(1836)の進士。国史館纂修となり,福建省郷試の正考官,四川学政となったが,のち官界を去った。書は初め唐の顔真卿を学んだが,北碑の首唱者包世臣と交わり,また阮元(げんげん)の弟子となり,北碑や漢碑に傾倒してついに一家を成した。道光期における北派の第一人者と言える。
  • 關山月(かんさんげつ)
  • 仇英(きゅうえい)
    中国,明代中期の画家。字は実父(じっぽ),号は十洲。江蘇の人。周臣に師事し,師,同門の唐寅とともに院派の三大家となった。古画の模写を通じて習得した正確で細密な描線を駆使して,山水画,人物画を描き,特に士女風俗図は後世多く模倣された。
  • 昇賢(きょうけん)
  • 虚谷(きょこく)
    中国,清末の僧,画家。俗姓は朱,名は虚白,僧となってのちの通称は虚谷和尚。本籍は新安 (安徽省) ,上海に定住。初め清朝の将官であったが太平天国の革命に参加し,のち出家して書画三昧の余生をおくった。山水,花卉,蔬果,禽虫など多様な題材を描いたが,ことに金魚を描いて著名。
  • 金農(きんのう)
    中国,清代の画家,書家,詩人。字は寿門,号は冬心。浙江省杭県の人。30歳ころから諸国を周遊,60歳以後揚州に住んで書画を描いて生活し,画家として名を成すに至った。
  • 啓功(けいこう)
  • 黄永玉(こうえいぎょく)
  • 黄易(こうえき)
    1744‐1802 中国,清朝中期の文人画家。名は易,字は大易,父黄樹穀の号松石にちなんで小松と号した。浙江省仁和の出身,官は山東済寧の運河同知にいたった。公務の繁忙にもかかわらず一日も風雅をすてず,詩画に励んだという。画は倪瓚(げいさん),黄公望を学んで淡白で簡略な作風に新境地を開いた。奚岡(けいこう)と親しく画風にも共通する点が多い。金石の学にくわしく,山東武氏祠堂の保存に努めた。
  • 江稼圃(こうかほ)
    中国,清代の画家。江戸時代唯一の外国船寄港地であった長崎を中心に外来美術の影響のもとに成立した長崎派画人の一人。名は大来,字は連山,稼圃はその号。浙江省杭州臨安の出身。1804年(文化1)来日し,以後たびたび渡航して版本に親しむほか,画を学ぶ方法のなかった日本の文人画家を啓発した。1720年(享保5)来航した伊孚九(いふきゆう)と同じく,当時のどの正統的な画派にも属さぬ,やや形式的な山水画を描いた。
  • 高其佩(こうきはい)
    1660‐1734 中国の清代の文人画家。字は韋之,号は且園,別号は南村など多数。遼寧省鉄嶺の人。官僚の家に生まれ,漢軍鑲白旗の軍人から,父蔭により入官し,刑部右侍郎に至った。8歳より絵を学び,のち夢に筆ではなく指を用いてかく指頭画の法を得たと伝えられ,表意性の強い作品を数多く製作した。指頭画法は,のちの中国のみならず,池大雅等,日本の南画にも多大の影響を与えた。
  • 黄君壁(こうくんぺき)
  • 黄公望(こうこうぼう)
    1269‐1354 中国,元末の文人画家。本姓は陸,字は子久,号は一峯,大癡。江蘇省常熟の人。初め中台察使院の属官になったが,連座して入獄し,1314年(延祐1)ころ,帰郷して後,江南各地に遊び,新道教の全真教に入った。作画は50歳ころから始め,董源・巨然を宗とする山水を描き,元末四大家の一人として,後世の呉派,南宗正統派に深甚な影響を与えた。代表作に《富春山居図巻》があり,著に《写山水訣》がある。
  • 黄冑(こうちゅう)
  • 黄賓虹(こうひんこう)
    1865‐1955 中国現代の画家。名は質,賓虹は字,号は樸存。安徽省黟(い)県の人。6歳のとき倪炳烈,倪逸甫について絵を学ぶ。宋元画の本質に迫り蒼勁の中に生動感があり,高古の中に瀟々とした味わいのある山水画を得意とした。彼は西欧に留学していることから伝統の国画に洋画の感覚を加味し重厚な中に華美な絵画世界を樹立した。創作にはげむとともに貴重な美術史料の収集にも精力を注いだ。神州国光社から美術叢書,神州国光集等を刊行した。
  • 高鳳翰(こうほうかん)
    1683‐1748? 中国,清代中期の画家。山東省膠州の人。字は西園。号は南村,晩年には尚左生,南阜,老阜。雍正5年(1727)孝廉方正にあげられ,官は安徽省歙県(しようけん)丞にのぼったが讒言(ざんげん)により退官し,のち揚州を中心に活躍した。草書,篆刻(てんこく)にもすぐれたが1741年(乾隆6)右手を患って以後,左手で威勢のよい山水・花卉(かき)画をかいた。尚左生と号したゆえんである。詩集に《南阜詩鈔》があり,硯の収集家で著に《硯史》がある。
  • 康有為(爲)(こうゆうい)
    1858‐1927 中国,清末の学者,政治家。字は広厦(こうか),号は長素,のちに更生と称した。広東省南海県の生れで,門人から南海先生とよばれた。はじめ同郷の朱次琦について宋学を主とする漢宋兼採の学をまなび,のち陽明学や仏教に傾き,さらに当時漢訳された欧米の書籍を通じて西洋近代の政治・学術をも研究した。1888年(光緒14),順天郷試受験のため入京,時の皇帝に政治制度の改革を要求する上書をおこなって政界に波紋を投じた。
  • 呉冠中(ごかんちゅう)
    中国の画家。中国の水墨画と西洋の油絵の手法を融合し,風景画に代表される独自のスタイルをつくり上げた。評価の高い風景画の多くは抽象画にきわめて近い。1942年国立杭州美術学校を卒業,1947~50年フランスのエコール・デ・ボザールで学び,フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ,モーリス・ユトリロなどの影響を受けた。1950年に帰国したが政府に裸婦画を非難され,文化大革命初期には農村に下放された。1970年代初めに画家復帰を許され,北京の中央美術学院や清華大学などで教鞭をとる一方,香港,シンガポール,日本,アメリカ合衆国,イギリスなどの展覧会に参加した。1992年大英博物館で,現代中国人芸術家として最初の展示会が開催された。
  • 呉湖帆(ごこはん)
  • 呉作人(ごさくじん)
  • 呉昌碩(ごしょうせき)
    1844‐1927 中国,近代の画家。名は俊卿,昌碩は字,号は缶廬(ふろ)。浙江省吉安県鄣呉村の人。清末・民国初期の中国画壇における中心的存在。彼の誕生の4年前にアヘン戦争が勃発し,外国の侵略が激化する。また国内では社会経済上に変革が起こって封建社会から半植民地・半封建社会へと移行した大変革期であった。17歳のとき太平天国運動の波が彼の故郷浙江省にも押し寄せた。この時期に弟と妹が相前後して飢饉で死ぬという苦難をなめた。
  • 呉煕載(ごきさい)
    中国、清(しん)代後期の書画・篆刻(てんこく)家。江蘇(こうそ)省儀徴の人。初名廷(ていよう)、煕載は字(あざな)。のち煕載を名とし、譲之(じょうし)を字としたが、同治帝の即位により、御名載淳を敬避して、譲之を名とした。号は晩学居士、言庵など。堂号師慎軒。儀徴の諸生にあげられたが、官途にはつかず、書画・篆刻を売って清貧孤高の生涯を送った。清代第一の批評家包世臣(ほうせいしん)に師事して楷(かい)行草を学び、篆隷篆刻は包の師の石如(とうせきじょ)を祖述し、画は張賜寧に倣って花卉(かき)をよくした。彼の芸術はいずれももの静かで気品が高く、細やかな情趣に満ちているが、なかでも篆刻が優れているとされる。著述に『資治通鑑(しじつがん)地理今釈』、作品集に『師慎軒印存』『呉譲之印存』『呉譲之先生書画冊』など。
  • 呉大澂(ごだいちょう)
    清代の官吏。江蘇省蘇州生。字は清卿・子敬、号に垣軒・愙斎等。李鴻章配下の革新的官僚の一人で、のち湖南巡撫まで昇り、また吉林兵器廠の創設等、近代施設の育成に努めた。書家としても名があり、特に篆書は自分の研究した古籀に基づき独特の風格を成した。光緒28年(明治35・1902)歿、68才。
  • 胡鉄梅(こてつばい)
    清代の画家。安徽省桐城生。画家胡寅の子。名は璋、鉄梅は字。日本人女性と結婚し、のち来日して日本で画名が高まった。文人趣味の溢れた四君子・花卉雑画の類を得意とした。王冶梅と並んで梅画で有名である。光緒25年(明治32・1899)歿、52才。

さ行の中国作家一例

  • 斉白石(さいはくせき)
    中国の画家。湖南省湘潭生。幼名は阿芝、のち£氈ケ悊・論帖∧鵡罎墨渓院μ攵・纊40才から全国を行脚し、のち北京に移り住んだ。石濤や呉昌碩に至る明・清の個性派から多くを学び、草花・虫・蝦などを愛情とユーモアに満ちた画風で描いた。また篆刻は雄渾な作風を備える。北京美術専門学校教授。中国美術家協会主席。人民芸術家の称号を与えられた。1957年(昭和32年)歿、94才。
  • 沙孟海(さもうかい)
  • 謝稚柳(しゃちりゅう)
  • 周作人(しゅうさくじん)
    中国の作家、翻訳家、啓蒙(けいもう)家。1885年生まれ。魯迅の実弟。明治末期の日本に留学し、古代ギリシャ語や英文学を学ぶ。帰国後、北京大学で教職に就き、人道主義による思想革命や新文学の建設を提唱、中国新文化運動を推進した。文化大革命中の1967年に病死。
  • 祝允明(しゅくいんめい)
    1460‐1526 中国,明の文人,書家。字は希哲,号は枝山また枝指生。蘇州の人。1492年(弘治5)の挙人。広東興寧知県,応天府通判などを歴任した。唐寅,文徴明,徐禎卿と共に呉中四才子と呼ばれ,奇行をもって有名。詩文をよくし,書に巧みで,小楷は鍾繇(しようよう),王羲之,狂草は懐素,黄庭堅を学び,筆勢は鋭く奔放である。著に《懐星堂集》がある。
  • 沈周(しんしゅう)
    中国,明の文人画家。長洲 (江蘇省呉県) 相城里の人。字は啓南,号は石田,白石翁。代々書画に長じた名家に生れたが,科挙を受けずに糧長として徴税事務をとったほか,一生を在野の文人として終った。絵は水墨の花卉雑画にも巧みであったが山水画は明代随一といわれ,詩文にも長じた典型的文人画家。門下から祝允明 (しゅくいんめい) ,唐寅 (とういん) ,文徴明らの俊才が出て沈 (周) ・文 (徴明) と並称され,呉派文人画の祖となった。代表作に『 仿大癡山水図』 (上海博物館) ,『夜坐図』 (台北,故宮博物院) ,著書に『石田集』がある。
  • 沈南蘋(しんなんぴん)
    清の画家。康熙22年(1683)浙江徳清生。名は銓、字は衡之、南蘋は号。享保16年(1731)来朝、長崎に二年間在住の間、日本の花鳥画に大きな影響を与えた。乾隆25年(1760)存、歿年未詳。
  • 徐渭(じょい)
    明代の書画家。淅江省山陰生。字は文清・文長、号は天地・天地山人・青藤・漱仙・海笠・田水月等。行書に長じ、古文辞を能くする。また花卉図を得意とする。万暦21年(1593)歿、72才。
  • 常書鴻(じょうしょこう)
  • 蒋兆和(しょうちょうわ)
    中国の画家。四川省瀘県の出身。孤児として育ち,上海で百貨店の広告部に勤めながら制作に励み,1929年の全国美術展覧会で認められ,1930年南京中央大学美術系助教授となる。
  • 徐悲鴻(じょひこう)
    1894‐1953 中国近代の画家。江蘇省宜興県の人。幼少から絵を好み,1917年来日後さらに欧州に留学,デッサンと写実主義絵画を修得する。欧州各国で多くの展覧会を開催し好評を博する。35年帰国し解放後は中央美術学院長に就任し美術教育界に貢献した。西洋画的素描に卓越するとともに,雄渾な気迫と豪快な国画的筆力による馬の絵は特に著名である。代表作に油絵の《田横五百壮士》がある。
  • 任頤/任伯年(じんい/じんばくねん)
    1840‐96 中国,清末の画家。字を伯年,号を次遠といった。浙江省山陰県(現,紹興)の人。15歳で上海に住んで創作に励み,虚谷や呉昌碩(ごしようせき)らと交わり,上海派第一の流行作家となった。中年以後は八大山人の画風から新しい用筆法を会得し,花鳥,人物,山水画等に新風を吹き込み,中国の近代絵画に大きな影響を及ぼした。師の任熊(じんゆう),任薫,任預とともに〈四任〉と称された。
  • 石濤(せきとう)
    中国,明末清初の画僧。生没年不詳。明の王室に生まれ,明朝滅亡後出家して,僧名を道済,字を石濤,号を大滌子(だいてきし),清湘老人といった。蘭竹,蘭梅などもよくしたと伝えるが,《廬山観瀑図》《黄山図巻》などの黄公望の影響のみえる山水画によって名高い。
  • 石魯(せきろ)
  • 錢松嵒(せんしょうがん)
  • 曽熙(そうき)
  • 孫文(そんぶん)
    1866‐1925 中国の革命家,政治家。中国国民党の創設者,指導者。中華民国の創始者として国父と称された。字は逸仙,号は中山(欧米ではしばしばSun Yat‐senと呼ぶ)。広東省香山県(現,中山県)翠亨村の貧しい農家に生まれ,12歳のとき出稼ぎで成功したハワイの長兄のもとに行き,教会学校で西欧の近代教育をうけた。16歳のとき帰国,香港で洗礼を受け,広州の博済医院の付属医学校で医学を学んだ。この学校で反満秘密結社三合会の首領鄭士良(1863‐1901)と知り合った。
  • 宋文冶(そうぶんじ)

た行の中国作家一例

  • 趙之謙(ちょうしけん)
    1829‐84 中国,清代末期の書画・篆刻(てんこく)家。浙江省紹興の人。字は益甫,撝叔,号は悲盦(ひあん),无悶(むもん)。咸豊9年(1859)の挙人。初め科挙のため顔真卿を習ったが,北京に上って金石学に接し,北碑に心酔,篆隷はもとより,北魏書と呼ばれる楷行を創始した。書画・篆刻ともに近代感覚あふれる芸術境を開拓,激しい感情を自由に盛りこんだ。《江西通志》の編集に従事,最後に南城知県に在職中病没した。《六朝別字記》等の著がある。
  • 趙少昴(ちょうしょうこう)
  • 張瑞図(ちょうずいと)
    明末の進士・書画家。福建晋江の人。字は長公、号は二水・白毫菴主・果亭山人。天啓年中に権勢を振った中宦魏忠賢のもとで入閣、中極殿大学士兼吏部尚書に至るが、失脚後は郷里に隠棲した。行草書に優れ、独自の書風をつくりあげて邢侗・米万鐘・董其昌とともに「邢張米董」と称された。また画は黄公望を学んで山水を能くした。崇禎14年(1641)歿、71才。
  • 張善孖(ちょうぜんし)
  • 張大千(ちょうだいせん)
    中国の画家,収集家。Chang Ta-ch'ienとも記す。20世紀の中国人芸術家のなかで特に国際的な名声が高い。幼少期に家族から絵画の道を勧められた。1917年,トラの絵で有名な画家で兄の張善孖に同行して京都に留学し,染色を学んだ。2年後に上海へ移り,当時の著名な書画家,曾熙と李瑞清に師事して伝統的な絵画を学ぶ。初期の画風は,唐寅,陳鴻寿,石濤ら明,清の遺民画家を手本にした。上海で成功したのち,1920年代後半には北部に活動の場を広げ,北京の文化人たちと積極的に交わるようになった。この頃に始めた北京の有名な画家溥心畲との共同制作は「南張北溥」として知られるようになり,1930年代に制作された 2人の共同作品の作者名には今日もこの呼び名が用いられている。1940年から画家仲間とともに敦煌莫高窟,敦煌楡林窟で仏教壁画の模写に取り組んだ。日中戦争の間には伝統的な唐,宋時代の人物画や古い時代の巨大山水画を熱心に研究,古典的作品から着想を得たハスの花の絵で特に知られるようになった。1949年の政治情勢の暗転を機に,1950年代初めに中国を離れ,アルゼンチン,ブラジル,アメリカ合衆国など各地を転々とした。1956年にフランスのニースでパブロ・ピカソと面会した際は,東西芸術家の出会いとして大きな話題になった。1950年代後半から目を患ったが,視力が低下するにつれて溌彩と呼ばれる様式の成熟度を高めていく。自身は,この様式は一つには唐代の画家,王墨の溌墨技法にならったものとしているが,当時アメリカで注目を集めていた抽象表現主義の技法や,伝統的画法との決別に関係しているとの見方も多い。1978年には台湾に移住。国立故宮博物院の隣に建つ当時の住居摩耶精舎は,今日では張大千記念館になっている。
  • 趙孟(ちょうもうふ)
    1254‐1322 中国,宋末元初の政治家,書画家。字は子昂(すごう)。松雪道人,鷗波道人,水晶宮道人と号し,趙文敏,趙呉興,趙栄禄などとも呼ばれる。呉興(浙江省)の人。南宋の孝宗の実父趙子偁(ちようししよう)の5代の孫にあたる。父は趙与訔(ちようよぎん)。宋末・元初の書画人として有名な趙孟堅とは従兄弟の間柄になる。初め宋に仕えて地方官になったが,宋の滅亡後は家郷で閑居した。1286年(至元23),元の世祖フビライに召されて大都(いまの北京)に行き,翌年奉訓大夫,兵部郎中に任ぜられた。
  • 陳賢(ちんけん)
    明代の画家。福建省東甌の人。字は希三、号に瞻葵・半禿僧・太玄道人等。福建省の九日山延福寺で観音・羅漢を中心に描いたといわれる。その画跡は黄檗の渡来僧によって日本に将来された。また書も文徴明を模し能くした。崇禎16年(1643)存。
  • 陳衡恪(ちんこうかく)
  • 陳少梅(ちんしょうばい)
  • 陳大羽(ちんだいう)
  • 陳半丁(ちんはんちょう)
  • 鄭孝胥(ていこうしょ)
    1860‐1938 中国,清朝の旧臣,書家。福建省閩(びん)県の人。字は太夷,号は蘇龕。光緒8年(1882)郷試の首席。総領事として神戸に在住したが,日清戦争のため帰国。満州事変後は溥儀を助け,満州国国務総理となった。すぐれた儒学者として王道の実現を理想としたのは有名であるが,また詩書をよくし,とりわけ書は,古樸な独自の風格が世人に愛された。書室を海蔵楼といい,《海蔵楼詩集》などの著がある。
  • 鄭燮(ていしょう)
    1693‐1765 中国,清の書画家。字は克柔,板橋と号する。江蘇興化の人。ふつうには鄭板橋と呼ばれる。乾隆1年(1736)の進士。山東の范県,濰県の知事となり,農民の困苦を救い善政をしいたが上役にさからって官をやめ,揚州で書画を売って自活した。画は草書の法をもって描いた水墨の蘭竹を最も得意とし,書は行楷の中に隷意をまじえ,みずから〈六分半書〉と称した。詩は興のおもむくままに作り,白居易や陸游に似るといわれ,〈悍吏〉〈私刑悪〉〈孤児行〉〈逃避行〉など,人民の痛苦を歌ったものが多く,〈家書〉などの書信も自然で率直である。
  • 程璋(ていしょう)
  • 程十髪(ていじゅっぱつ)
  • 田世光(でんせいこう)
  • 唐寅(とういん)
    1470‐1523 中国,明代中期の文人画家。字は伯虎,のちに子畏と改めた。号は六如居士,桃花庵主など。呉郡(江蘇省呉県)の人。弘治11年(1498)の郷試に解元(首席)となったが,翌年の会試で不正事件に連座して獄に付され,帰郷後は仏教に帰依して六如居士と号する一方,みずから〈江南第一風流才子〉と称し,放縦な生活を送った。蘇州では沈周(しんしゆう),祝允明(しゆくいんめい),文徴明,徐禎卿,張霊などの文人と親しく交わり,大きな影響を受けた。
  • 唐雲(とううん)
  • 菫寿平(とうじゅへい)
  • 董其昌(とうきしょう)
    1555‐1636 中国,明代後半を代表する書画家。松江(上海市松江県)の人。字は玄宰。思白,香光,思翁などの号をもつ。万暦17年(1589)の進士。官位は南京礼部尚書にまで昇進,晩年は官僚生活を退き,郷里で没したと推定される。死後,文敏と諡(おくりな)を賜った。高級官僚であり,この高い官位が,生前の書画における名声をひきあげたことも否定できないが,彼の芸術の真価は,明末以降の中国書画壇に決定的な影響を及ぼした。 書家であり画家であった董其昌は,書画の鑑識や評論の方面でも理論的な指導者であった。
  • 鄧石如(とうせきじょ)
    1743‐1805 中国,清代中期の書家,印人。安徽省懐寧の人。初名は琰。字は頑伯,号は完白,笈遊山人。幼時から刻技を好んだが,やがて印や書を売り生計をたて,諸国を歴遊しながら金石の善本を臨摹(りんも)研究し,見識を深めた。書は篆隷(てんれい)書の復古運動の先駆者として豪毅高古の風格をたて,碑学派の雄と称される。また篆刻は剛健,渾厚な風により浣派の祖といわれ,近代新風の起点となった。《鄧石如印存》などの集がある。

は行の中国作家一例

  • 白雪石(はくせつせき)
  • 八大山人(はちだいさんじん)
    1626‐1705 中国,清代初期の画家。明朝王室の後裔で,寧藩弋陽(よくよう)府の王族として南昌(江西省)に生まれる。名は中桂とも統(とうりん)とも考証されるが,朱耷(しゆとう)が通行している。字は雪个(せつこ)。明の諸生となったが,1645年(順治2),20歳のときに明朝が滅んで寧藩に清軍が侵攻すると,南昌東南の進賢県介岡の灯社に隠れて僧となり,のち師の宏敏を継いで奉新県新興郷の耕香庵の法嗣となる。法名は伝(でんけい)。
  • 范曾(はんそう)
  • 潘存(はんぞん)
  • 藩天壽(はんてんじゅ)
  • 馮遠(ひょうえん)
  • 溥儀(ふぎ)
    1906‐67 中国,清朝最後の皇帝。在位1908‐11年。年号により宣統帝という。また満州国の皇帝としては康徳帝といい,在位1934‐45年。姓は愛新覚羅(アイシンギヨロ),字は浩然。光緒帝の弟載灃(さいほう)(醇親王)の長子として生まれ,西太后の意志で3歳で即位した。辛亥革命により退位後も中華民国臨時政府の清室優待条件により大清皇帝の尊号を保持し,紫禁城内に住んで小朝廷を維持していたが,1924年馮玉祥ら国民軍の北京占領に際し,優待条件を取り消され天津に移った。
  • 傅山(ふざん)
    1607‐84 中国,明末・清初の書画家。陽曲(山西省太原)の人。初名は鼎臣。字は青竹,のちに青主。号は嗇廬(しよくろ),丹崖翁,僑黄老人など多数ある。幼少から典籍を精読し,山西省晋陽の三立書院で袁継咸(えんけいかん)の門下生の第一に抜擢された。明の滅亡後,遺民としての節をまげず,道士の身なりをして清朝への反抗の意志を示し,1678年(康熙17)博学鴻詞科に推されたが,病と称して出仕を拒んだ。書ははげしい筆致の草書により胸中の逸気を吐露した。
  • 溥儒(ふじゅ)
  • 傅抱石(ふほうせき)
    1904‐65 中国の画家。江西省新喩県の人。若くして日本に留学し,帝国美術学校(現,武蔵野美大)を卒業,東洋美術史学を専攻。1935年国立中央大学芸術学科教授,美術家協会副主席,江蘇省国画院長等を歴任。石濤,梅清の影響を強く受け,深い自然観察による新奇な構図と卓越した潑墨で清新な作品を創造した。画集に《傅抱石画集》,画論に《中国絵画理論》《石濤上人年譜》等がある。
  • 文徴明(ぶんちょうめい)
    1470‐1559 中国,明代の文人,書画家。蘇州府長洲県(現,江蘇省呉県)の人。初め名は璧,字は徴明であったが,のちに広く字で知られたため,さらに字を徴仲と改めた。号は衡山,停雲生など。父の文林は成化8年(1472)の進士で温州知府に終わった。文徴明は詩文を呉寛に,書を李応禎に,画を沈周(しんしゆう)に学んで三絶と称賛され,祝允明,唐寅,徐禎卿とともに呉中四才子といわれたが,科挙には10回応じてついに合格しなかった。
  • 豐子愷(ほうしがい)
  • 包世臣(ほうせいしん)
    1775‐1855 中国,清代後期の政治家,書家,書論家。字は慎伯,号は倦翁。安徽省涇県の人。嘉慶13年(1808)の挙人。結局進士に合格せず,生涯幕友で終わったが,経世,軍事に早くより関心を有し,一見識を抱いていた。両江総督の幕友となって以来(1811),江蘇の運河,漕運の実務にかかわり,税糧の海運を主張した。経世家としての包世臣の重要な側面である。晩年,江西省新喩知県となったが1年で退官,南京に寓居中,太平天国の乱に遇い没した。

ま行の中国作家一例

  • 毛奇齢(もうきれい)
    1623‐1716 中国,清代初めの学者。字は大可。晩年,西河先生と称せられた。浙江省蕭山県の人。若いころから文才を発揮し,1679年(康熙18),博学鴻詞科に挙げられ翰林院検討を授けられた。明史纂修官に任ぜられたが,官界では不遇だった。その学問は博覧を好み考証に長じ,後の漢学の先駆となった。宋学を好まず,漢易による《仲氏易》や朱子の注の誤りを指摘した《論語稽求篇(けいきゆうへん)》《四書賸言(じようげん)》,閻若璩(えんじやくきよ)《古文尚書疏証》に反対して《古文尚書》が偽書でないことを論じた《古文尚書冤詞》などの著述が有名。
  • 牧谿(もっけい)
    中国、宋末・元初の画僧。法名は法常、牧谿は号。西湖六通りくつう寺の開山という。多岐にわたる水墨画を描いたが当時興った文人画の系列でなく軽視された。日本へは早くから伝わり、日本水墨画に多大な影響を与えた。大徳寺伝来の「観音・猿・鶴」三幅図ほか伝称作も含め多くが伝わる。生没年未詳。

や行の中国作家一例

  • 楊守敬(ようしゅけい)
    1840‐1914 中国,清の学者。字は惺吾,晩年鄰蘇老人と号した。湖北宜都の人。博学をもって知られ,特に地理の学にくわしく,《水経注》の研究に力を用いた。《水経注要删》40巻,熊会貞と共著の《水経注疏》40巻等の業績がある。訓詁学にも通じ,金石文字の考証を行った。能筆で,特に鐘や鼎の文字の模写を得意とした。黎庶昌の随員として日本に滞在中,書籍の探訪につとめ,数十万巻の善本を得た。《日本訪書志》はその書誌学的研究である。
  • 葉淺予(ようせんよ)

ら行の中国作家一例

  • 藍瑛(らんえい)
    1585‐? 中国,明末・清初の画家。字は田叔,号は蜨叟,石頭蛇。銭塘(浙江省杭州)の人。山水を得意とし,時流の倣古主義にのっとり,張僧繇以来の多くの古人に倣ったが,職業画家として装飾的画面の構成に最も意を用いた。杭州を中心に活躍し,子の藍孟,孫の藍深・藍濤をはじめ,弟子の劉度,蘇宜など多数が出て,当時の杭州画壇の領袖的存在であった。かつて浙派の殿将とされたが,北宗(ほくしゆう)に固執せず,最も私淑したのは南宗の黄公望であった。
  • 李可染(りかせん)
  • 陸儼少(りくげんしょう)
  • 劉海粟(りゅうかいぞく)
    生年月日:1896年3月16日 中国の洋画家 1994年没
  • 呂紀(りょき)
    中国,明代の画家。生没年不詳。浙江省の人で,字は廷振,号は楽漁。花鳥画を辺文進に学んだほか,唐宋の名画を模して技をみがき,山水の中に花鳥をおいた装飾的画風を大成。
  • 林散之(りんさんし)
  • 林風眠(りんふうみん)
  • 郎世寧(ろうせいねい)
    清朝に仕えたイタリアのイエズス会修道士,画家。イタリア名はカスティリオーネGiuseppe Castiglione。1715年北京に渡り,康煕・雍正・乾隆3帝の厚遇を受け,その命に従って各種の絵を制作した。
  • 魯迅(ろじん)
    1881‐1936 中国の文学者,思想家。本名周樹人,字は予才。その弟に周作人がいる。浙江省紹興の裕福な官僚地主の家に生まれたが,少年期に家が没落して辛酸をなめたことが,最初の現実覚醒の契機となった。やがて,清末に流入した進化論をはじめとする西欧啓蒙思潮の影響を受けつつ日本に留学,はじめ民族救済の道を医学に求め仙台医学専門学校に籍をおくが,弱小民族として差別される経験を重ねるうち文学に傾斜し,東欧被抑圧民族の文学を訳出する。